辺野古の事故はなぜ報じられないのか──沖縄で感じた違和感

先週、仕事のため沖縄にいた。四月とは思えないほど暖かく、ずっと半袖で過ごした。人もやさしく、食べ物もうまい。仕事で来ているのに、どこか休暇のような気分になる。そんな一週間だった。

本来なら、沖縄での楽しい話を書きたいところだ。しかし前回のブログ「9歳以下で年間1000人──報道されない行方不明の現実」が思いのほか反響があったことを受け、今回は現地で抱いた違和感を書き留めておきたい。

沖縄でもテレビをつけると、京都の小学生男児のニュースがずっと流れていた。京都にいる時も同じニュースばかりだったので、関西在住者だから目にする機会が多いのだと思っていた。しかし沖縄でも状況は変わらなかった。朝から晩まで、繰り返し同じ内容が報じられていた。

一方で、ほとんど報じられていない事故があった。3月16日、辺野古沖で同志社国際高校の修学旅行中の生徒らが乗った抗議船2隻が転覆し、女子生徒と船長の計2名が死亡、14名が負傷するという痛ましい事故である。無登録の船に生徒を乗せ、教員が同乗していなかったという安全管理の問題も浮上している。

全国ニュースはもちろん、地元の沖縄でもこの事故はほとんど報じられていなかった。2名が亡くなり、14名が負傷した重大事故である。にもかかわらず、私が滞在中にテレビで見たのは、京都の小学生の行方不明ニュースばかりだった。

この報道の偏りは、あまりにも不自然ではないだろうか。

おそらく辺野古の事故は、報道機関が触れたくないテーマなのだろう。基地問題という政治的背景、抗議活動に関わる市民団体、学校側の判断──。様々な要素が絡み合い、どこかに焦点を当てれば必ず批判を受ける。だから、報じないという選択をしたのではないか。

昔から報道には”癖”がある。政治的に複雑な背景を持つ問題よりも、影響が限定的で、誰か特定の人物に焦点を当てやすい題材を好む傾向があるように思う。

たとえば小保方さんのSTAP細胞事件や、佐村河内守氏の”現代のベートーベン”事件。あれらは個人の問題として描きやすく、視聴者の関心も集まる。結果として、連日報道が続いた。

一方で、政治や権力と関わる話題は扱いが慎重になる。典型例がジャニーズ事務所の問題だ。創業者が存命の間は、大手メディアはほぼ沈黙していた。しかし亡くなった途端、報道が一気に増えた。

今回の辺野古の事故も、同じ構造があるのではないだろうか。基地問題は政治的に微妙で、市民団体の活動も絡む。学校の責任、行政の対応、さまざまな角度から検証すべき問題のはずだが、そこに踏み込むことを避けているように見える。

少し前に、日本の報道自由度ランキングが世界で68位だというニュースが話題になった。ランキングの評価基準には議論の余地もあるが、報道の姿勢については、確かに疑問を感じることが多い。

沖縄の青い空の下で、テレビから流れるニュースを眺めながら、そんなことを考えていた。温暖な気候とは裏腹に、報道の世界はどこか息苦しい。

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