私には、長年注目している一人の男がいる。 といっても、文化人やスポーツ選手、あるいは世間を騒がせるような有名人ではない。ただの普通の男だ。おそらく年齢は私と同じぐらいだろう。
彼を初めて知ったのは、もう数十年前になる。「知り合った」と書かなかったのは、向こうはおそらく私のことなんか知りはしないと思うからだ。つまり、こちらが一方的に知っているに過ぎない。 少し訂正すると、「注目」という言葉は大袈裟かもしれない。意識しているというか、視界の隅に引っかかっているというか、そんな程度である。
会うのは大体、自宅から駅へと向かう道すがらだ。 私は京都市の比較的中心部に住んでいる。朝、私が駅の方へ歩いていると、向こうは駅から降りてきて、おそらく会社へと向かっている。そのすれ違いざまが、私と彼との接点のすべてだ。
なぜ意識し始めたかといえば、私が社会人になってまだ日の浅い頃、その男もまた新入社員のような風情で歩いていたからだ。 真新しいスーツに、馴染んでいない革靴。同じような境遇の男が、同じような顔をして、反対の方向へと歩く。ただそれだけの親近感であった。
それから数十年が経過した。 毎日のように会うこともあれば、数ヶ月、あるいはもう少し間が空くこともある。 その都度、私はその男の顔を見る。彼もまた、私を見ているかもしれないし、見ていないかもしれない。ただ確かなのは、会うたびに彼が年齢を重ねていっているという事実だ。

もともとは背が高く、ハンサムな部類に入る男だった。しかし近年は、明らかに老けてきている。 肌のハリは失われ、背は心なしか丸まっている。いつの頃からか、鞄を体の前に抱えて歩くようになっている。明らかに劣化していると感じる。 この男も歳をとり、老人になりかかっているのだな、と思いながら私は見ている。他人の顔というものは、自分の鏡を見ているよりも残酷に時間を告げるものだ。かつてあんなに若々しかった彼が、今や生活の疲れと重力に引かれているのを見るのは、一種の感慨であり、また虚しさも感じる。
ふと、最後にあの男と会ったのはいつだろうと考える。 もう結構、前のような気もする。数ヶ月どころか、年単位になるだろうか。 そう考えると、だんだんと心配になってきている自分がいる。あの男はどうしたのだろうか、と気にかかっている。
もしかしたら、会社を辞めたのかもしれない。 また、定年になったことも十分に考えられる。もう随分と老けていたからな、と思う。 昔の、あのハリのあった肌や、少し生意気そうな表情ははっきりと覚えている。それと比べると随分の変化だ。人間は、ただ生きているだけで、こうも変わってしまうんだ。
もちろん男とは、話をしたことはない。名前も知らないし、どんな声をしているのかも知らない。だけど、よく知っている気がする。 まるで、私は動かない定点観測のカメラのようなものだ。

最近、ふと思い始めたのは、私も誰かに一方的に見られているかも、ということだ。 どこかの誰かが、私の顔の皺の数や、歩き方の変化を、冷徹な目で観察している可能性もある。「あいつも随分と劣化したな」なんて。それもいいだろう
それにしてもあの男、今どうしているのだろうか。 もし次に見かけることがあれば、その時はもう、私も結構な年になっているに違いない。



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