善行と思いたい気持ちと、あてにならない正しさについて

その他

今回の話は、何が正解かを主張するつもりはない。私自身、何が正しいのか、未だによく分からないままである。

先日のこと。仕事を終え帰宅のため、いつもの道を歩いていた。遠目に人が立っているのがわかった。だんだん近づいて数メートルほどの距離となり、それが年配の女性だと判明した。

私はその人の背後から近づいていたのだが、それを彼女も察知したのだろう、こちらへ振り向いた。私と目があった。すると彼女は、「そこのスーパーに行こうとしている。助けてほしい」と言う。

聞けば、家を出てから三十分ほどかけてここまで来たが、どうしても動けなくなった。だから、連れて行ってほしいという。彼女は杖をつき、自力でよたよたと歩いてきた様子だった。自宅はここからほんの二百メートルほど行ったところのマンションだという。

私は人助けのつもりで、彼女に腕につかんでもらいながら、少しずつ進み始めた。それはもう、ゆっくりのスピードである。彼女は五十年働き詰めの人生だったとか、その類の苦労話を聞かせた。

ようやくスーパーの駐輪場の横まで来た。これでようやく目的地に着いたと、私は安心した。

そのとき、自転車を止めようとした別の女性がいた。近所の顔見知りの年配女性だったので、挨拶を交わした。彼女は、こちらの顔を確認したのち、隣の女性の顔を見た。私は、この方が大変そうだったのでお助けしているのですよ、と説明した。

近所の女性は、私の行為に対し、人助けをしているのね、みたいなことを言うのだろうと予想した。しかし、彼女は意外なことを言い出した。

腕につかまっている女性に対し、近所の女性は次のように説教をし出したのだ。「あなたどこに住んでいるの?あぁ、あのマンション。すぐそこじゃないの。なんであなたは福祉を利用しないの?そういう時に、頼らないと。事実、若い人(私のこと)に迷惑かけているじゃないの」と。

私はそれを聞いて、あぁ、そういう捉え方もあるのだとはっとした。一般的に、私の行為は美談に分類されるであろう。しかし、同じ年配者から見ると、それは違ったのだ。

私の行いは、果たしてよいことだったのか?いや、きっと正しかったと思いたい。そんなことが頭をぐるぐる巡っていた。

印象的なできごとだったので、私はその日、別の年配女性にも聞いてみた。するとその人は、次のように言った。「それは手慣れている。常習犯かもしれない」と。話を聞いてほしいがために、そうした行為をしていた可能性があるというのだ。常習“犯”は言い過ぎだとは思うが。

ますます私はわからなくなった。果たして、私の行いは正しかったのかどうか。あの女性が悪かったのか。今もわからぬままだ。ちなみに翌日は、変な力を使ったのか、一日中、背中が痛かった。

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